「隠れ里の一夜 =前編=」  今は亡き私の恩師から聞いた話しをしましょう。  その人は若い頃小学校の教師をしていましたが、結婚して教職をやめられました。  しかし、人に物を教える事が辞められず、子供が生まれて手がかからないように なると、私塾を開き近所の子供達を集め勉強を教えてくれました。  かく言う私も、その私塾に通った一人でありました…  恩師は勉強だけではなく、勉強の合間に色々楽しい話や物語をしてくれました。  私などは、勉強よりもそっちの話が聞きたくて、せっせと私塾に通ったものです。  恩師は女学校時代、東北地方を旅して色々な民話を尋ね歩き、それを記録し研究 するアルバイトをしていたそうです。  これから語るのは、その時の話しだそうです。  東北地方を旅して歩いて、旅の途中で日が暮れて、小雪の舞い散るとある駅に下 り立った彼女は、この夜の宿泊先を探していました。  その駅は近くに温泉でもあるのか、駅前には登りを持った旅館の客引きが数人た むろしていました。  彼女はその人達の所に行き、その日の宿をお願いしましたが、その当時、女性の 一人旅は忌み嫌われていたようで、誰も彼女を泊めようとしませんでした。  しかたなく、彼女はその日の宿を探して町中を歩く事にしました…  町中の旅館を幾つか尋ねましたが、どこも同情はしてくれるのですが、いいかげ んな返事ばかりして彼女を泊めようとはしませんでした。  困り果てた彼女は、盛岡まで出て宿を探すことにして駅まで戻って来ました。  日はすっかり暮れて、夜の帳がすっかり町を包んだ頃、駅に戻りました。  さっきの駅前でたむろしていた旅館の客引き達は客を見つけたか、一人も居ませ んでした。  駅前に人影はなく、駅舎の中にも人の気配が無いみたいでした…彼女は駅舎の入 り口の前で冷えた手を行きで暖めていました。  そんなとき、  「もうし?」 と、ふいに後ろから声を掛けられた。  驚いて振り向く彼女に  「おねえちゃん、旅の人?」 と、赤いビロードの頭巾を被ったおんなのこがにこにこと笑って話し掛けて来た。  「えっ?えぇ…」 と、どぎまぎしている彼女に、おんなのこはものおじもなく彼女のすぐ側まで来て、  「今夜泊まる所決まったの?」 と、彼女の顔を見上げながら彼女の袖を引っ張った。  彼女は、女の子と同じ視線までしゃがみこむと  「ううん…みんな断られちゃったの…」 と、彼女は首を横に振った。  「なら…家においでよ!」  「えっ…?家って、あなたの?」  「うん!」  女の子は、大きくかぶりを振ると言葉を続けた。  「家はこれでも旅館だよ、ここからちょっと遠いけど…ちゃんと温泉もあるよ!」  これを聞いて、彼女の顔はパッと明るくなった。  「ホント?泊めてくれるの?」  彼女は女の子の手を取り聞いた。  「うん!」  女の子はニコニコしながら再び大きくかぶりを振った。  「たすかったわぁ」  彼女は女の子の手を取ったまま両手を合わせて拝むような仕草をした。  女の子に袖を引っ張られて町外れまで来ると、そこには1頭だての馬車が留って いた…  馬車を見つけた女の子は、彼女の袖を離して一目散に馬車の元まで走って行った。 そして、馬車の運転台によじ登った。  彼女が女の子の後を追って馬車に近づくと、それまで暗くて見えなかったが、馬 車の運転台には大きな人影があった。  馬車に近づくにつれ、馬車の運転台に燈るランプの明かりで馬車の運転台にいる 人物が、熊の毛皮のちゃんちゃんこを着てりっぱに頭の禿上がった髭面の大男だと いうことが解った。  女の子はその大男の膝に腰掛け、大男の顔を見上げて小声で2言3言話していた。  その大男は背を丸め、女の子の顔にできるだけ耳を近づけて話しを聞いていた。  彼女は大男の姿に少し、脅えて馬車の前に立ち止まっていると、  「おねえちゃん、こっちにお乗りよ」 と、大男の膝の上から女の子が荷台を指差した。  彼女がなお、脅えて動こうとしないと、  「おとうさん、おねえちゃんが恐がってるよ…もっと愛想よくしてよ!」 と、大男の顔を見上げ、大男の二の腕を叩いた。  「大丈夫よ、おねえちゃん!この人熊じゃなくてあたいのおとうさんだから…」 と、ニコニコして言った。  その声に安心して荷台に近づくと、荷台の上は野菜や米等が沢山載っていた。  「すみませんねぇ…買い出しの荷物と一緒で…」  大男のする声は、低く通りの良い声で、彼女にやさしく語り掛けた。  彼女が荷台に乗ったことを確認すると大男は馬車のたずなを引き絞った。そして、 ゆっくりと馬車を出した。  大男は彼女に道々色々な話しをしてくれた。大男はその図体に似合わず愛想のい い人物であった。  話しによると、大男の本業はマタギで、たまたま彼の家の側で温泉が出ていたた め、彼の女房が宿を経営しているのだそうだ。  客は常連の客が年中泊まりに来ていて、こうして客引きをする事はたまに町に買 い出しに来た時だけとのこと…  彼女は、その話しを聞いて、運がいいと思った。  馬車は町からかなり離れ、山道に入ったがいっこうに宿らしい明かりが見えなか った…彼女は、だんだん不安なっていき、  「あの…宿はまだ遠いのでしょうか…?」 と、おそるおそる聞いた。  「大丈夫よ、お父さんが歌を歌っている間に着いちゃうから…」  いつの間にか、彼女の横には女の子がちょこんと座っていた。  「歌を…」  「うん」  そう言って女の子は彼女に身をすり寄せると人懐っこい笑顔で彼女を見上げた。  彼女もそんな女の子が愛しくなって、女の子を抱き寄せた。  馬車の運転台の大男は、大地に響くような大声で歌を歌い始めた。  その歌は、まるでテノール男性歌手が奏でる語りかけるような調子で、それでい て、歌の内容は彼女には理解できない言葉であった。しいて言えば、その歌は大地 の神を讃えるアイヌの人々の祈りの声に似ていた。  その歌声は、大きく大地に響いているが彼女の耳に響くような煩わしさはなく、 還って優しく子守歌を聴いている気分になって、いつしか彼女は眠ってしまった…  …やがて、どれほど眠ってしまったことであろう…彼女は女の子に起こされた。  「おねえちゃん、家に着いたよ」  「え…やだ…私眠っちゃったのね…?」  女の子は彼女の問いかけに答えず、彼女の腕をするりと抜けて家の玄関に向かっ て駆け出していった。  女の子が玄関から二言三言叫ぶと、中から絣の着物を着た肌が透き通るように白 い線の細い美しい女と、杖を突いて腰が直角に曲がったこれまた、白粉でも塗って いるかのような顔の白い老女が出てきた。  女の子は老女に駆け寄り抱きついた。どうやら、この2人は女の子の母と祖母ら しかった…  「お客様、当館にようこそいらっしゃいました。つたないもてなししかできませ んが、どうぞごゆっくり繕いで下さい」  少々きつめの目を細めて微笑む女に彼女は  「おせわになります」 と、答えた。  彼女は馬車を降り荷物を取ろうとすると、彼女の目の前に太い腕がニョキッと現 れ、彼女の荷物を軽々と持ち上げた。  驚いて見ると、彼女の横にはいつの間にか大男が立っていた。  大男は無言で彼女の荷物を女に渡すと、彼女もまたその荷物を軽々と持った。  「部屋に、ご案内いたします」  女は、荷物を持ったまま彼女を先導して玄関をくぐった。  玄関を通るとき「桃源館」と立派な筆遣いで書かれた看板が在ったのが見えた。  玄関の隣には広い土間があり、その向こうには馬屋らしき物があった。  彼女が珍しがって、屋内を見回していると、  「この家が珍しいですか?」 と、玄関に上がった女はクスクス笑って言った。  「はっ…はい」  彼女は、自分のしていることが一寸恥ずかしくなって、素っ頓狂な返事をした。  「お客さんは、どちらからいらっしゃいました?」  「と、東京からです」  どぎまぎして答える彼女に対して、女は細い目を丸くして、  「おや、お珍しい…東京からのお客様は何年ぶりかしら…それでは、この家の作 りは珍しいでしょう」  女は、家の中を見渡して言った。  「は、はい…」  「この土地は馬は大切な物ですから、馬と人間は一つ屋根の下で暮らすのですよ。 それに、雪深いし…」  その言葉に、彼女はなるほどと納得した。  玄関に上がり、部屋に案内されて行く途中で、この家は屋敷といえるほどの大き な構えの家屋であることが判った。  曲がりくねった廊下、大きな中庭、幾重にも仕切られて居るであろうと思われる 数々の部屋…彼女は迷いそうな気がした…  旅館は繁盛しているらしく、中庭の向こう部屋からは賑やかな笑い声や幾段にも 重ねた膳を運ぶ数人の仲居の姿が見えた。  しかし、彼女が案内されている廊下に面した部屋は、所々部屋の中に明かりが灯 っているのが見えるだけで、中には人が居る気配がしなかった。  「済みませんねぇ…今日は峠の麓の村人が宴会をしている物ですから…」  女は笑って言った。  「…峠って…?」  「はい、この宿は峠の頂上にあるのですよ。村の人達は、丁度あなたの来た町の 反対側から来たのです」  女は、クスクスと笑って言った。  彼女は途中眠っていたのが恥ずかしくなった…  廊下の突き当たりの部屋に彼女は通された。  その部屋は8畳の大部屋で部屋の隅に大きな火鉢があった。  「ごめんなさいね、こんな隅の部屋しか空いて無くて…すぐ食事の支度を致しま す。お客さんは温泉にでも浸かって下さいな」  女は、彼女を先に部屋に入れ、部屋の入り口に彼女の荷物を置くと、正座して畏 まり言った。  「いえいえ…泊まれるだけでも結構です」  彼女は勿体ないとばかりに手を振って答えた。  「温泉は娘がご案内いたします。それでは、ごゆっくり…」  女はそう言うと、座ったまま部屋から下がり、静かに障子戸を閉めた。  彼女が上着を脱ぎ、座布団に腰掛けると  「おねいちゃん、お風呂に案内してあげる!」 と、女の子が障子戸を開けて部屋に飛び込んできた。女の子は相変わらず、赤い頭 巾を被ったままだった…  「あっ…はいはい」  一息着く暇もなく、再び立ち上がった彼女に女の子は  「これ、おねいちゃんの浴衣と手ぬぐい」 と言って、彼女に手ぬぐいと浴衣を手渡すと、彼女の手を引いた。  女の子に手を引いて貰って温泉に向かう道すがら、彼女はまたきょろきょろと周 囲を見回していた。  「ずいぶん、大きなおうちねぇ…」  「うん、昔はこの地方のお庄屋様のお家だったそうだけど、お爺ちゃんが買い取 って旅館にしたの…最初は小さかったんだけど、次々に建て増ししたんだって!」  「そう、こんなに広くてよく迷わないね」  「ううん…あたいも良く迷うよ」 と、女の子は言って彼女にニコッと笑った。その時、反っ歯の八重歯が見えた。  幾重にも折れ曲がる廊下のある角を曲がると階段があった。  「こんな所に階段なんかあったっけ?」と、彼女は疑問に思ったが、女の子はそ んなことお構いなしに彼女の手を引いて階段を降りた。  階段を降りると渡り廊下があった。二人は渡り廊下を渡り、その先にある二畳ほ どの広さのある板敷きの間で下駄に履き替えると、カンテラを持った女の子に手を 引かれて暗い道を藪の中に入っていった…  「なんか怖いわ…」  暗さと、寒さから不安になった彼女は藪の間から時折見える星空を見ながらつぶ やいた。  すると、女の子はケラケラと笑い出した。  「おねいちゃん、怖いの?」 と言って、彼女の方を振り向いた。  彼女は女の子に笑われてムッとしたが、  「そうねぇ…まさかお化けは居ないでしょうけど、妖怪さんか狸さんでも出てき そう…」 と、平静を装って言った。  すると女の子はよけい笑って、  「大丈夫よ、妖怪も狸も狐も山の動物達はみんな、あたいの友達だもん!」 と、胸を張って答えた。  彼女は女の子の言葉によけいにムッとしたが、  「そ、そう…それじゃあ安心ね」 と、少しトーンが高い口調で言っただけであった…  無言のまま暫く歩いていくと、  「ほら…あれ」 と言って、女の子が指を指す方を見ると、暗い闇の中にかすかに湯気らしき物が見 えた。暫くすると、岩場に囲まれた露天風呂が見えてきた。  藪の中を歩いた距離はほんの短い距離であったが、彼女にはそれが長い道のりに 思えた。  女の子は脱衣所に彼女を案内すると、  「おねいちゃん、さっさと入った方がいいわよ、もう少しすると、宴会をやって いるお客さん達がくるから…」  その言葉を聞いて、彼女はドキッとし、そそくさと着物を脱いで温泉に入った。  女の子は、カンテラを露天風呂に覆い被さっているように生い茂っている木に吊 すと風呂場から出ていこうとした。  彼女はその姿を見て急に不安になったのか、  「…ねえ、一緒に入らない?」 と、声を掛けた。しかし、  「ううん…あたい入らない…」  「どうして?」  「お母ちゃんから、お客さんと一緒に入っちゃだめって言われてるんだ、それに、 他の男のお客さんが来ないように見張ってなきゃ…」  「…そう…」  彼女は、女の子の言葉を聞いて、いささかがっかりすると共に、この旅館の気遣 いをありがたく思った。  温泉の湯は、熱くもなく緩くもなく旅の疲れがスウッと退いていく感じがした。  いつまでも湯に浸かっていたいが、この寒空に脱衣所の前で待っている女の子の ことを考えると、そうもいかなかった…  「まっ、いいかぁ…明日の朝、入らして貰いましょう…」 と、独り言を言うと、彼女は風呂から上がった…  風呂から上がって、持ってきた浴衣に着替えると、脱衣所の外で待っている女の 子に  「出たわよ」 と、声を掛けた。  その声を聞くと、女の子は  「あれ?早かったのね?」 と、言って脱衣所に入って彼女の顔を見てニコッと笑うとそのまま通り過ぎて風呂 場に入っていった。  そして、カンテラを持ってくると、また来たときのように彼女の手を引いて来た 道を戻っていった… 藤次郎正秀